アイスクリームの話、独占欲の話。2012~2014年ごろに書いたものの加筆修正版。
■ アイスクリームの話
「トラちゃんただいまー。アイスが大漁ー」
ふり向いた家主の顔に扇風機の風がそよいで、ふわふわとその髪を揺らしている。ソファーの足元に座り込んでいた荒木さんが、非難の目でこちらを見遣って小さく「おかえり」と呟いた。
七月に入り、先日ようやく重い腰を上げて冬物のカーペットを片づけ、代わりに扇風機と夏用の井草の敷物を引っ張り出してきて衣替えをした。敷物が変わっただけで部屋の中は開放感に溢れた。そして革張りのソファーを使わずに井草の上でくつろいでいる恋人の姿を見て、おれは夏の訪れを実感する。荒木さんは由緒正しき田舎の民家で育った人なので、やたらと畳への愛が深いのだ。
「誰がトラちゃんや。先輩に向かって」
Tシャツの袖で額の汗を拭っていると、小言が飛んできた。さっきの不機嫌な顔はあだ名で呼んだせいらしい。あだ名で呼ぶことなんてしょっちゅうあるのに、というか、最近はそっちの比率のほうが高くなってきているくらいなのに、たまに思い出したかのように荒木さんは先輩面をする。そして毎回おれに適当に受け流されるのがお決まりになっていた。
今日も例に違わず聞こえないふりをし、おれはたった今コンビニで買いつけてきたばかりのアイスクリームを次々とローテーブルに陳列していく。
「いろんなのがあったから適当に買ってきたけどどれがいいすか?」
「さらっと無視すんな。おれチョコミント」
「珍しいっすね。はい」
「ちょっとでも涼しくなりたいんよ」
毒々しいほどに鮮やかな緑色のカップとスプーンを荒木に手渡して、自分はいちごが描かれているものを選んだ。いちごの果肉とホワイトチョコレートが螺旋状に練り込まれた、子どものころからよく知っているパッケージだ。残りは溶けてしまわないように冷凍庫へ移動させた。
「梅雨はどこ行ったんだかなあ」
小言のことなどもうすっかり忘れた様子で、荒木さんはいそいそとアイスを口へ運ぶ。単純だな、とおれはおかしく思いながら、いちごの種を噛む。扇風機の風下に並んで座っていると、薄荷の匂いがほのかに風に乗って届いた。
そこでふと気がついて、おれはアイスに夢中になっている荒木さんににじり寄った。
「おれにも分けて。風」
「あーもーくっつくな暑苦しいから」
荒木はあからさまに嫌そうな声を出しておれの肩を押しのけた。そんな言い方をしなくてもいいだろうと思いながら、負けじと食い下がる。
「だってこっちだと全然風当たんないっす」
「なんでも早いもん勝ち、年功序列」
「ずるい。じゃあエアコンつけて」
「フィルターが汚れてるから無理よ」
「今からでも掃除してくれていいっすよ」
「なあこれって首振れるんだったっけ?」
「どっかボタン押せばできるんじゃないすか。ちょっと貸して」
「どこ持てばいいの?」
「別にどこでも」
反対側まで回り込むのが面倒で、おれはあぐらを掻く荒木さんの上に這いつくばるような体勢になりながら扇風機に手を伸ばした。密着しても今度は文句を言われなかった。
荒木さんの自宅の扇風機は貰いもので、羽根のないハイテクな感じのするモデルだった。けれど使う本人はあまり電化製品にあかるくなく、細かい操作はいつもおれに任せっきりだ。無事に首振りを開始した扇風機を行儀悪くテーブルに乗せ、ふたりで順番に風を分けあった。ついでに風量も増やした。さすがにハイテクなだけあって風は広く万遍なく行き渡り、快適だ。アイスの相乗効果もあって、汗はすっかり引いてしまった。
「台風が来てるってさっき車のラジオでやってましたよ」
話を元に戻すと、荒木さんが納得したように窓を見上げた。
「そっかフェーン現象か。そういや朝から空の色が濃いよね」
「急に暑くなったしね。早く食べないとアイス溶けるよ」
「もうかなりいっとる」
「ねえ荒木さんのおれにも一口ちょうだい。味見味見」
荒木さんが掬い上げたアイスを指差しておれは言った。ええー、と、言うわりに嫌そうには見えない表情で、荒木さんはそれを自分で頬張る。そして再びざっくりとカップの中にスプーンを突き刺して、一口にしてはじゅうぶんすぎるくらいの大きな塊をおれの顔の前に差し出した。
「ほれ、あーん」
おれは身を乗り出し、言われるがままに口を開けた。すると塊を丸ごと放り込まれた。
「ひょっ、ろ、あにふんふかっ」
「ははは」
笑う荒木さんをどつきながらどうにか飲み込もうとするものの、やはり量が多すぎる。冷たいものを一気に食べたときによくなる、あの鋭い頭痛に襲われた。
「うあ、だめだこれやばい。やばいやばいやばい」
言って、思わず額やこめかみを押さえると、してやったりというふうに荒木さんが意地悪い笑顔を浮かべる。いい歳をして子どもみたいないたずらで大喜びするとは、まったくどうしようもない。
頭痛が治まり一息ついたとろで、ようやく薄荷とチョコレートの味が鼻を抜けていった。気管支全体がスカスカする。
「どう?」
「……どうって。まあうまいっすよ、うまいけどね、そういう問題じゃない」
「おまえのもくれ。少しでいいよ」
荒木さんがぱっかりと口を開けて催促してきた。その未だ笑みの引いていない顔に、おれはむくれる。そして悔しさを込め、待ち構えている口の中に同じく大量のアイスクリームを無理やり押し込んでやった。
「おらおらどうだー」
「ほぐあっ」
「出しちゃだめっすよ汚いから。ほらおいしい? おいしいかなートラちゃん? ふははっ」
「うひ、ばかっ、うわあかん、はあーッ」
「これでフェアっすね」
今度は逆におれのほうが意地悪い笑顔を浮かべ、間抜けな声を上げながら身悶える荒木さんを傍観する。スプーンの底に貼りついて残っていたチョコを舌で舐め取った。口の中が甘くて涼しい。夏のアイスクリームは実に幸せだ。
「あーそうだ。いっこ思い出しました。キーンときたらねえ、ここ冷やすとマシになるってテレビでやってたっす」
ひいひい悶絶し続けている荒木さんの背中を軽く叩いてやりながら、自分のカップをその額に押しつける。汗をかいて柔らかくなった紙が、額のカーブに沿ってぐにゃりと歪んだ。
「どんな感じ?」
「うう……歯に沁みる……」
「あっそれはどうしようもないわ。たぶん」
目を潤ませている荒木さんに向かい、おれは笑って冷たい息を吐いた。
(おわり)
■ 独占欲の話
「じゃあこれタクシー代な。おまえらも帰り気をつけろよ」
ドアを閉める衝撃で車体が揺れ、密室になった空間に沈黙が降りる。しゅるしゅる、カチン、というシートベルトを締める音がやけに響いて聞こえ、発進する準備ができたのを耳だけで確認してから、おれはサイドブレーキを下ろした。
「あいつらまーた、よく食うんすから」
一息ついて、助手席の森野が言った。その口ぶりは軽く、明るい。今しがた別れたばかりの後輩たちの食いっぷりを思い出してか、ふふふ、と穏やかに吐息を漏らす様子を、おれは度々横目で窺った。
「みんな万年育ち盛りって感じっすね」
「そうやな……」
「まあおれも他人のこと言えないけど。あ」
なにかを思い出したようにぱっかりと開いた唇が、すれ違う車のライトに照らし出されて光る。
「おれまで奢ってもらっちゃってなんかすんませんした」
「いいよ。おまえのぶんは帰ったらきっちり徴収させてもらうから」
「うわっ、あいつらの前でかっこつけたかっただけ?」
「まあな」
「あーあ見損ないました。つーかおれも立派な後輩だった気がすんすけどね」
「うるせーわ、おれのこと先輩だと思ってないくせに」
「ばれてた?」
「隠しとらんやろ」
たわいない会話を続けているうちにも、車はおれの自宅へ向けて夜の繁華街からぐんぐん遠ざかる。途中また何度か森野の表情を窺ったが、頬がかすかに笑みの形を作っていて、そこから機嫌のよさが見てとれた。後輩たちとの食事の席がよほど楽しかったのだろう。
今晩の森野は、揃った面子がよかったのか悪かったのか、相手が後輩ばかりだったにもかかわらず甘え放題だった。くだらない話で盛り上がり、ツッコまれ、笑う。隣の席に座っていたやつなんかはもう格好の餌食で、脚や腕や背中にべたべた触るし、逆に気安く触られたとしても森野は叱るどころか満更でもなさそうで、また後輩たちも森野の態度に気をよくしていた。
一方のおれは、そのあたたかな気配に満ちた空間を、なんとも言えない心持ちで真向かいの席から眺めているだけだった。森野の挙動が終始気がかりで、出された料理の味をまったく覚えていなかった。
「……おまえさあ。ちょっと無防備すぎるやろ」
信号待ちになったとき、おれは初めて森野をふり返り、言った。一度では意味が伝わらなかったのか、森野はこてんと首を傾げておれを見上げた。瞳はアルコールのせいで赤く潤んでおり、闇の中でも涙の膜がはっきりと見て取れる。
「そういうのあんまり人前でやんなよ」
「はい? おれなんかしました?」
森野はおれの言葉を全然理解していなさそうだった。子どものような目で真っ直ぐに見つめられ、おれは口ごもる。
別に、後輩との付き合い方に口を挟みたいわけじゃなかった。もともとこいつは酒と食が好きで、恋人であるおれを差し置いて知人と食べ歩いているのはしょっちゅうだし、職場でだって、常に誰かのそばにくっついては延々喋り倒しているようなやつだ。コミュニケーション能力が高いのは結構な才能だと思う。おれは森野のそういう部分に憧れてもいる。けれど、懐いた相手にはみな平等に屈託のない甘えた笑顔をふりまく姿を間近で見せつけられると、それが森野の長所とわかってはいても、時折どうしても胸の奥がざわついてしまうのだった。
「……自覚がなかけん……」
普段の森野の言動を思い出したらますますもどかしさが募り、おれはハンドルに顔を俯せた。
「話が見えないんすけど。信号青っすよ」
森野はなに食わぬ様子でおれの肩をぽすんと優しく叩く。そういうところやぞ、と思いながら、仕方なくハンドルを握り直す。
「だけん……だからさあ、あんまり隙を見せんなって言ってんだよ。そんなんで変なやつに付け入られたらどうすんのおまえ」
「え、おれが?」
「そうだよ」
「えー……? ははっ、いやいやなにそれ考えすぎだって。そもそもね、おれをどうこうしようなんて考えつく物好きはトラちゃんくらいでしょー」
森野は呑気に言いながらひらひらと手のひらを翻らせた。おれ自身としては至極真面目な話をしているつもりなのに、軽く笑い飛ばされてしまって納得がいかない。言い返そうと思ったとき、突然前を走っていた車がウインカーを出さずに左折しようとしたので慌ててブレーキをかけた。そのうちに信号機が赤に変わってしまい、横断歩道に差しかかる変な場所で待たされることになった。深夜で歩行者はいなかったものの、思わず溜め息が漏れた。
「おまえはなんでいつもそうなの」
危機感のなさにほとほと呆れ、おれは一息にそう吐き捨てた。すると森野は笑みを引っ込めて、ちょっとうんざりしたようにかぶりを振った。
「おれ束縛されんの嫌いっす」
「おい、ちゃんと聞いとけよ。いいかモリーおまえな、おまえはなあ」
森野の言葉を遮り、おれに向かって指を差そうとしたらしい手首を、そうされる前に捕えた。
森野が息を呑んだ。ほろ酔いの潤んだ瞳が動揺に揺れながらおれを映し込んでいる。それだ、と思う。そんなふうに無防備にしていて、もし今ここにいるのがおれじゃなかったら、一体どうするつもりなのだろう。車内は密室で、この至近距離で、逃げ場もなくて。物好きの人間にいつどこで遭遇するかもわからないし、物好きでなくたって、なにかの弾みでその気になってしまう可能性だってあるだろう。だってこいつはこんなに。
「おまえはなあ、自分のかわいさを全っ然わかっとらん。昔っからや。おれだけにしときゃいいのに誰彼構わずみんなに甘えて……少しくらい自覚してもらわんと見てるこっちは毎日気が気じゃ」
そこまで言ってしまってから、はっとした。勢い余って本人には直接伝えなくていいような恥ずかしい台詞まで口を滑らせたことに気がつき、おれは慌てて口を噤んだ。今さらそんなことをしても遅いというのに。
「……、」
森野の唇が動きかけた瞬間、突然クラクションの音がすぐ近くで鳴り響いた。驚いて意識を引き戻すと、いつの間にか信号が青になっている。なかなか発進しないおれの車に後続車が焦れて急かしたのだ。
くそ、わかってるよちくしょう、と理不尽に腹を立てながら、おれは森野の手を離し、乱暴にアクセルを踏んだ。
森野は結局なにも言わずにふいっと窓の外に視線を移してしまった。解放された手首を軽くさすったのが気配でわかった。おれの手のひらには森野の体温の感覚が残っていて、森野ももしかしたらそれを気にしているのだろうか、と思ったが、今はそんなこと、とても言い出せるような空気ではなかった。強くハンドルを握りしめると、全身に変な汗が滲んできた。
道路はやがて暗い農道へと変わった。ぽつぽつと頼りなさげに白い街灯が灯っている。運転席側の窓を少し開けた。遅れて森野が同じように助手席側の窓を開ける。夏の終わりのぬるい風とともにカエルと虫の鳴き声が一気に流れ込んできた。
「……今から行ってもいいけど」
沈黙していた森野が唐突に呟いた。ドキッとする。独り言のような声量ではあるものの、それが自分に向けられた言葉であることはすぐに察した。
行くってどこへ、とか、そんな野暮な返答をするほど純粋ではないおれは、うん、と答えた。森野よりもずっと小さな声で。なんだか情けなかった。
手頃な曲がり角で車を転回させ、いま来た道を逆走する。森野はまた手首をさすっている。窓を開けたにもかかわらず暑さは、いや、この全身の異常なまでの熱さがいつまでも引いてくれない。ぬるい風もカエルも虫も、ふたりの間に流れるむず痒い空気までは掻き消してはくれず、おれ達は結局それきり互いに顔を背けあったまま、ホテルに辿り着くまで一言たりとも言葉を交わすことができなかった。
(おわり)