夏の終わりの話。2010~2012年ごろに書いたものの加筆修正版。
土日の夕方は、いつもこんな感じだった。デイゲームで仕事が早めに終わると、このあとどうする、なんて会話を交わすわけでもなく、けれどなぜかごく自然な流れで、森野は決まってうちに上がり込む。いつからかすっかり染みついてしまったその習慣を、例に漏れず日曜の今日もくり返して、十八時を回るより少し前くらいに森野はやってきた。
「ただいまー。あっつうー、荒木さんシャワー貸して」
九月の初めの、けれど秋と呼ぶにはまだ早すぎるように思える残暑厳しい日で、リビングに顔を出すや否や森野はそんなことを言い、おれの了承も待たずにベランダのほうへぺたぺたと歩いていく。干してあった洗濯物の中から、自分の服を探している。
「おかえり。球場でしてこなかったの」
その無遠慮な態度にすっかり慣らされてしまっているおれは、今さらなにを咎めることもせず、ソファーの背もたれ越しにのんびりと尋ねたりする。
「まあうん。急いでたんで」
「今日ってなんかあったっけ?」
「え? 荒木さんの誕生日」
「変やな、おれもう三十五になんの?」
「トラちゃんに一刻も早く会いたくてねえ、飛んできちゃった」
おれが驚いてまじまじと見つめると、嘘だか本当だか判断しかねるような感じで、ふふふと森野は笑みをこぼす。
「……そうなの?」
「いや、嘘。うん。風呂入ってきたけどまた汗かいたんでもう一回流したいだけっす」
「さっさと行ってこい」
「もーそんながっかりしないでよ」
「してねえわ」
「トラちゃんも一緒に行く?」
「行くか。あとトラちゃんって言うな」
しっしっと追い払う仕草をするおれを見て、森野はにやにやしながら足取り軽くリビングを出ていった。
西日が真昼の鋭さをやや残し、部屋の壁や床を焼いている。森野が戻ってくるまでに洗濯物を片付けてしまおうと思い、ベランダに出た。風は湿っているが思ったよりも涼しい。空は水色で、太陽の周りだけが薄く黄味がかったような色を帯び、遠く望める名古屋の街の背後には、立派な入道雲が立ちのぼっていた。その空模様を見て、今日はよく晴れた一日だったのだろうな、と想像をする。おれはドームの屋根の下で過ごしていたから実際のところはわからないけれど。
この辺りは郊外に近い静かな地域で、都心のほうよりも小高い地形になっている。加えてマンションの周りには緑が多く残り、反対にビルなどの背の高い建築物はほとんどないので、四階というさほどの高層階ではないおれの部屋からでもじゅうぶんに街全体を見渡すことができた。
入道雲は崩れたり膨らんだりしながら少しずつ形を変えていく。その足元にそびえる都心のビル群を眺めながら、おれは田舎の風景を重ねた。子どものころに見ていた空というのはもっとずっと広かったような気がする。あれは生まれ育った場所が空を遮るものがなにもない田舎町だったせいだろうか。それとも自分の身体が成長したせいなのだろうか。
そういえばここしばらく田舎にいる両親と連絡を取っていなかったな、と不意に思い出す。連戦続きだったり身体の具合が悪かったりするとつい近況報告が疎かになりがちだけれど、両親ももう結構な歳だし、いつなにが起きるかわからないこの世の中だ。思い立ったが吉日ということで、今晩にでも電話をしてみようと思った。
取り込んだ洗濯物は、よく見れば半分くらいは森野の服だった。各々の身辺は各々で適当に管理するというのが普段のおれ達のルールだったけれど、せっかく暇をしているのでついでに森野のぶんもまとめて整頓してしまうことにした。リビングのクローゼットを開ける。
「はーさっぱりしたあ」
自分の服だけ収納し終えたところで、森野が戻ってきた。
「おまえさあ、最近服増えすぎじゃない? ちょっと持って帰れよ」
「そんな増えてないっすけど。着替えの回数が増えただけでしょ」
「いや絶対増えとる。クローゼットの中キツキツやぞこれ」
「あれ? 片付けてくれてんすか? トラちゃんありがとー」
「……ありがとーじゃないわおまえ」
自分としては厳しく叱ったつもりだったのに、森野が無邪気に礼など言うものだから、毒気を抜かれた。説教を続けるかどうかしばらく迷って、まあ大したことじゃないしいいか、と結局口を噤む。おれはいつもこうやって、なんとなくのうちにこいつを許してしまいがちだった。森野はそんなおれの心境をめざとく読み、故意にあの懐っこい笑顔を作ってみせているのだろうか。あるいは天性の甘ったれか。いずれにしたってタチが悪いことに変わりはないか。
「ったく……おれのスペースが圧迫されてんだからな」
「えー? じゃあ小さいクローゼット買い足す? 寝室に置けばいいじゃん」
森野は適当な提案をしながら濡れた髪を掻き上げる。
「おまえんちかよ」
「まあそんなようなもんっすね」
「……あっそ」
もう九月なのに毎日暑いなあ、などとぼやいてエアコンの風が直撃する場所へと引き寄せられていく森野の背中を、おれは黙って見つめた。
反論の余地がなくなってしまい、仕方なしに、入りきらなかった自分の洗濯物を寝室のほうの箪笥に詰め込んだ。そこには森野の冬物の服が下着から上着まで何着も揃えられていて、冬場になるとあいつは大概このへんから服を引っ張り出して着回しているのだった。
森野の私服の山を見ておれは小さく溜め息をついた。森野に対してではない。さっきあいつが口にした、そんなようなもん、という言葉を満更でもなく思っている自分に対して、だった。堪えようとしても勝手に吊り上がってくる頬を手のひらで必死に引き伸ばす。森野に見られたらなにを言われるかわからない。
こんな調子では、溜まる一方の服たちがおれの部屋から消える日は当分の間やってこない気がした。いや、そうあってほしいという願望だったかもしれない。
家主ではない森野に家主のおれがなぜかシャワーを勧められ、微妙に釈然としない気分になりながらも従うことにした。自分も球場を出る前に風呂には入ってきたけれど、エアコンの効いていないベランダや寝室で動き回っていたためにまた汗をかいた。森野の身体からさっぱりとした石鹸の香りが漂い、エアコンの風に乗って届くそのにおいを嗅いでいるうちに風呂上がりの爽快感が恋しくなったというのも、理由のひとつだった。
手短にシャワーを終えて頭を拭きながら戻ると、森野はいつの間にかベランダに出て、手すりに両肘を突いてだらりと寄りかかっていた。水色だったはずの空の色が深まり、太陽は地平線に近い。これから夕焼けが始まろうとしているのがわかった。
「日が長くなったなって思ったばっかりだったのに、もうすぐ秋なんすねえ」
隣に並んだおれに見向きもせず、遠くに視線を飛ばしたままで森野は言った。
「まあそうやな」
「時間経つのめちゃくちゃ早いっすよ。歳食ったってことっすかね?」
「まだじゅうぶん若いだろ」
「そりゃまあ荒木先輩よりはピチピチしてるけど」
「おい。たった一年ぽっちで威張んなよ」
「いやどっちなんすか、若いほうがいいのか老けたいのか」
「おれもおまえも若いんだよ」
物干しの洗濯ばさみが風に煽られ揺れている。真夏の厳しい熱風とは明らかに違う、淡くまどろんだように滑らかな肌触りで、晩夏の風は吹いた。湿った肌や髪が冷やされる。ずいぶん前からここにいたらしい森野の髪は乾きはじめ、風の動きに合わせてはらはらと乱れている。
特にこれといった意味はなかったけれど、手を伸ばして触れてみた。
「なんすか」
森野が怪訝そうな視線を向けてくる。顔の半分が橙色に照らされている。髪の束を指で擦りあわせると、まだ生乾きでくったりしていた。
「別に」
「荒木さんて濡れるとやばいっすよね」
「え?」
「だってほら、生え際がねえ。ひひ」
「ほっとけ」
歳上をからかって笑う不届き者はおれの制裁の手刀を甘んじて受け、どこかで耳にしたことのあるような育毛剤のコマーシャルを口ずさんだ。それから、ちょっと喉乾きません、とおれに尋ねた。
「風呂上がりだもんな。なんか飲もうか」
冷蔵庫の中に森野がストックしている晩酌用の甘くないサイダーがあったので、それで乾杯した。酒は飲めないけれど炭酸は好きだ。舌の上で泡が弾け、喉を熱く焼く感覚が爽快だった。グラスを傾けるたび、カラリと小さな音を立てて氷が揺れた。
「うん、こりゃ夏っぽいわ」
「でももう終わっちゃうんすよねえ。夏」
「終わるなあ、残念ながら」
「やだなー寒いの嫌いっすもん」
「おれもー」
ベランダで肩を並べて言いあいながら、次第に激しくなりつつある夕焼けを眺めた。太陽は赤く膨れ上がり、入道雲はピンク色に染まる。油画のような重厚さを保ちながら、頭のてっぺんから崩れていく。立ち並ぶ木々や住宅が、光と影を含む。きれいだった。でも、夏が行くよ、もう行ってしまうんだよと、世界中に散りばめられたあらゆる物質が、もの寂しくさざめいているようでもあった。暑ければ暑いほど、夏の終わりは寂しくなるものだと思う。そして今年の夏はとても暑かった。
あと数十分もして、毒々しいまでに色づいた空に浮かぶあの夕陽が、力を失い地上から完全に消えてしまったなら、今度は夜の闇がそこに取って代わる。そうしていずれ夜も果て、朝が生まれて新たな一日が始まっていく。日々はひたすらにそのくり返しだ。でも、本当に終わらないものなどこの世には存在しない、というのもまた事実だった。あ、一番星、と森野が天を指す。頭上の空は青鼠色だった。
まだ身も心も未熟だったころ、空が今よりも広く思えたあのころのおれは、日常は永遠に続いていくものだと信じていた。けれど本当は違った。季節は移ろうものだし、時間は止めどなく手の内からこぼれ落ちる。今はこんなにゆるやかに流れているおれ達の生活も、いつかは必ず終わりを迎える。限られた囲いの中でおれ達は生かされているのだ。
世界の秩序が実はひどく頼りない基盤の上に成り立っているということに気づかされてからは、もうずいぶんと久しい。やはりそれだけ歳を取ったのだろう。おれ達はまだ若い、などと森野を叱っておきながら、自分もまた別の形で歳月の流れを実感している。
そこまで考えてふと気づいた。ああ、おれはいま感傷的になっているのか。目に見えないものについて徒然と思い耽ってしまうだなんて、きっと夕焼けの魅力に感化されたに違いない。美しく優しく、不思議な寂しさをまとう夏の終わりの景色を、見つめる。
「なにしますか、明日の休みは」
風で乱れた髪を撫でつけながら森野は聞いた。ぽっかりとした感じの声だった。森野はどんな思いを抱いているのだろう、この夕陽に。尋ねてみたい気がした。けれどまったく別の問いかけでおれは返した。
「一緒に風呂でも入る?」
夕焼けがさらに進み、空は青からピンク、そして赤へとグラデーションを作り、森野を照らしていた光も橙から赤に変わっている。
「嫌っす」
「はあ? なんで。さっきは自分で誘ったくせに」
「あんなん冗談でしょ。なに真に受けてんすかって」
「……真に受けてなんかねえよ」
拗ねているような声が出てしまい、ちょっと失敗したと思った。表情は崩さず内心だけで後悔していると、森野が眉を垂れ下げて困ったように笑いかけてきた。そして瞳の中に柔らかくおれを映し込んだ。
「まあね、頭くらいなら洗ってあげてもいいっすよ」
そう言って、緩んだ口元を隠すようにグラスを傾ける。グラスは汗をかき、透き通ったしずくが森野の指を伝い足元に滴った。夕陽がきらりと反射する。そのさまを眺めながら、ちょうどあんなふうに時間は過ぎてしまうのかもしれないな、などというくだらない想像をおれはした。こぼれて、煌めいて、やがて消えていく。
「……珍しく優しいじゃん」
「なんすか人聞き悪いな。おれはいつでも優しいでしょ」
「おまえそれ自分で言うか?」
「言うよ。ほんとのことだもん」
森野は得意げにふんぞり返った。赤く縁取られた輪郭が実にふてぶてしい形に歪む。感傷などとはまるで無縁のその態度に、いい性格してんな、とおれは嫌味を言って、でもどこかで安らぎも覚えながらサイダーを一口飲んだ。気が抜けはじめていた。
「そうだ、ドライブとかどうすか? 海行こう。海鮮丼」
森野が提案する。
「またそれかよ。先週行ったばっかやん」
「いいじゃん出不精だなあ。せっかくの休みがもったいないっすよ」
森野は車が好きだ。休日になると愛車の助手席におれを乗せ、街や島や海や山や食べ物のおいしいところ、なんてことのない高速のパーキングエリアまで、とにかくいろんな場所へ行きたがる。
森野の言うとおり出不精のきらいがあるおれとしては、振り回されるのは正直面倒くさいと思うのだけれど、なんだかんだで最終的にはおれが一番楽しんでいることも多かったりして、言うほど気乗りしないわけでもなかった。求められるのは、嬉しい。この気持ちはたぶん森野にもばれている。だからこうして懲りずに何度でもおれを誘うのだろう。
「荒木さんだってね、メシなにがいいって聞けばすぐラーメンって、そればっかじゃないすか」
「ラーメンはうまいからいいんだよ」
「ドライブも楽しいじゃん」
「好きやなあ」
「好きっす。……あ、あくまで荒木さんと一緒にいるのが楽しくて好きなんすよ?」
取って付けたみたいな言い方におれが渋い顔をすると、自覚があったらしい森野はけらけら笑った。こんなに小憎たらしいやつなのに、屈託のない笑顔が無性に愛しく思えて、また許してしまう。あーあ、とおれは溜め息をつく。
「モリー」
「はえ?」
袖を引くと、森野は無防備にふり向いた。やはりおれとは違って感傷などどこにもない、いつもどおりの森野だった。大きな瞳をぼんやりと見つめ返しながら、おれは手の甲でそっとその頬を撫でた。そして心に浮かんできた思いを、深く考えずにそのまま伝えた。
「おれはおまえと一緒ならなんでもいいよ」
「え」
無防備だった表情に動揺と困惑、そして夕陽のせいではない赤みが滲んできたのを認めたとき、ああまずい、とおれは後悔した。慌てて手を引っ込める。言葉に嘘はなかったけれど、感傷に浸りすぎたせいでなんだかずいぶんと必死な言い方をしてしまった気がした。
変な空気にあたふたしていると、森野が突然、手に持っていたグラスをおれの鼻めがけて突き出してきた。
「おいッ」
それをぶつかる寸前のところでどうにか回避する。仕事で鍛えられているので反射神経はいいのだ。
「なにすんだよ」
「荒木さんが変なこと言うからでしょ」
「……それはごめん」
「おれだって」
森野は唇を尖らせ、怒っているのとも拗ねているのとも違う微妙な目でおれを睨んだ。なにやらしばらく言いにくそうに口ごもり、やがてふいと顔を背ける。あらわになった首筋もやはり赤い気がした。
「別におれだってね、一緒にいたいと思ってんすよ。ちゃんと」
聞き取りにくいぼそぼそ声で、しかし確かに森野はそう言った。そっか、とおれは答え、残っていたサイダーを無理やり一気に飲み干した。
「……で、結局明日の予定決まってないし」
「あー……うん」
「ドライブ?」
「いいよ」
「あとは風呂ね」
「……うん」
森野がこちらの様子を窺うように横目で視線をくれた。ばっちり目が合ってしまったので、これは照れ隠しのつんけんした小言が飛んでくるぞという予感がした。しかしそもそも空気を変に乱したのは自分のほうなので、おれは叱られる子どもの気持ちになって唇をきゅっと引き結び、直立不動で森野のありがたいお言葉を待ち構えた。
「ふはっ」
すると思いがけなく噴き出された。
「どういう顔? かわいー」
森野はおかしそうに言い、ほほえみを残したまま長いまつげを伏せる。グラスの氷をくるくる回し、明日楽しみっすね、と独り言のように呟いたかと思うと、棒立ちしているおれの隙を突いてさっとキスした。一瞬シャンプーの香りがした。唇を軽く触れあわせただけですぐに離れていった森野は、背を丸め、したり顔でおれを覗き込む。それから満足げに太陽の行方を追った。
深く息を吐きながらおれは天を仰いだ。幸せで、たわいない時間だった。まったくこれだから人間の生活というやつは。誰に対してでもなく心の内で呟く。
こんなふうに、些細なことでふたりで笑ったり困ったり照れたり、たまにせつなくなってみたりなんて日々を、おれ達が一体あとどれくらい続けていけるのか、その答えは誰も知らない。先の見えない未来は不安だ。それでもおれは森野と共に在りたくて、ここにいる。森野もまた同じようにおれと過ごす時間を慈しんでくれているというのが、言葉だけでなく声や表情や仕草のひとつひとつから痛いほどに伝わってくるものだから、たまらなかった。
西の空は最後の力を振り絞らんばかりに鮮やかに燃え、寂寥をはらんだ情熱的な光で街じゅうを包み込む。入道雲は完全に崩れてしまい、帯状になってゆっくりと空に溶けていく。
同じ色に染まり、柔らかな風に吹かれながら、サイダー片手に森野と並んで夏を見送っていられる喜びを、おれは噛みしめる。生活に特別な幸せはいらない。ささやかでいいのだ。どうかこの先もずっと、できるだけ長くふたりで。おれのクローゼットの中にはこいつの服が詰まったままでありますように。
消え入る前の炎のような世界に願いを託して、おれはこっそりと森野に寄り添った。袖と袖がかすかに擦れあう。太陽の縁がゆらめいている。名古屋の街の向こう側へ、またひとつ、愛しい今日が暮れていく。
(おわり)