森野の顔面ヘッスラ事件の話。2010~2012年ごろに書いたものの加筆修正版。
今朝は早くに目が覚めた。遠征先の東京の、選手宿舎として借りているホテルのベッドは広く、ほどよい硬さで投げ出した身を弾く。白いシーツや枕はパリリと糊がきいていて清潔だ。淡い光が部屋じゅうに拡散し、身じろぐたびに宙に舞い上がる埃の粒を、煌めかせている。
おれは横になったままぼんやりと窓の外を眺めていた。早朝の空は薄い。東京の街に乳白色の光が染みわたり、それは地平線のほうへと遠ざかるにつれて、もやがかったように不明瞭になっていく。生まれ育った土地の影響からか、こういった高地から望める街のシルエットを、おれは好ましく思う。
あくびを噛み殺し、起き抜けの妙に重たい目蓋をごしごし擦る。目覚めてからもうどれくらい経ったのだろう、なおも意識ははっきりとはせず、深く眠れていないことがわかった。原因もわかっていた。唇に貼り付けられた大きな絆創膏を端から指で剥がそうとすると、わずかな刺激にそぐわないほどの激しい痛みに襲われ、思わず顔をしかめる。痛みに耐えながらなんとかそれを剥がしきり、体液で汚れたガーゼを確認してからベッドサイドのゴミ箱に放った。身体を引きずるようにして布団から這い出る。無意識に唇を庇って寝返りに影響したのか、肩や背中も重く凝っていた。
できるだけ傷に触れないようにと心掛けてはいてもさすがに限界があり、例によって今朝もまた、おれは決死の思いで洗面台に向かう。顔を洗ったり歯を磨いたりと、健康なときにはまったく気にも留めない普段の身支度が、今は苦痛以外のなにものでもなかった。鏡に映った唇は大きく腫れ、抉れるように深く擦り剥けた皮膚は少しも塞がる気配がなかった。
不眠の原因であるこの傷は、一昨日の試合中に作ったものだった。走者として本塁へ突入する際に、やらかした。なんとかして一点をもぎ取ってやろうと逸る気持ちを脚が裏切り、結果、ヘッドスライディングとは呼びがたいほとんど転倒同然の、顔面をグラウンドに豪快に叩きつけながらの帰塁という、なんとも不名誉な結果を招いてしまった。得点に結びつけられたことだけはせめてもの救いかもしれないけれど、我ながらあまりにも無様で恥ずかしい。
そしてそんな憂鬱な気持ちに追い打ちをかけてくるのが事件の目撃者であるチームメイトの面々だ。他人の気も知らずにベンチの向こうで手を叩いて笑うみんなの姿は、おれの野球人生において一生忘れられない場面のひとつになったと思う。なんなんすか、ちょっとは心配してよもう、とベンチに戻って文句を言っても誰もまともに取り合ってはくれず、大型ビジョンに映し出された一連のリプレイ映像を眺めてはまた大喜びする意地の悪い大人たちに囲まれながら、おれはぶすくれるしかなかった。
どうせみんな明日は我が身なんだよ。情けない捨て台詞を心の中で吐き捨て、濡らしたタオルで顔を拭く。溜め息をつこうと口を動かした瞬間にまた痛みが走った。一体あと何日このストレスに晒され続けるのだろう。スポーツをしていれば怪我を負うことなど日常茶飯事だけれど、おれも人の子なので痛いものは痛いのだ。洗面台に手を突き、がっくりと項垂れる。
朝食をとりに下りるにはまだ早く、けれど外へ出て身体を動かすのは少々はばかられるくらいの微妙な時間帯に、部屋の扉がノックされた。窓際の椅子に座って今日のタイムテーブルを確認していたおれは、音のしたほうへ意識を遣った。ノックはかなり控えめで、聞き逃してもおかしくはない程度の音量だった。備えつけのインターホンを敢えて鳴らさないのは、中にいる人間がまだ眠っている可能性を考えてのことなのだろう。
こういう気遣いをするのは思い当たるうちではまずひとりしかいない。おれはスリッパを突っかけ、確認もせずにドアノブを引いた。密閉されていた空気が隙間からぶわりと逃げていく。
「おお、はよ。起きてた?」
思い描いていたのと寸分違わない恋人の姿が現れて、鬱屈していた気分が少しだけ和らいだ気がした。
「うん、起きてた。おはよう」
「入っていい?」
「うん」
おれが空けた道をすり抜ける荒木さんの髪が、ふわふわと揺れている。かすかな石けんの香りもまとっており、軽くランニングをしたあとにシャワーを浴びたのだろうと想像できた。それがこの人の遠征先での日課だ。理由なくおれの部屋を訪ねてくることもまた、日課だった。
荒木さんはズボンのポケットから缶コーヒーを二本取り出し、それを資料が散らかったテーブルに並べると、ベッドに腰かけた。
「それモーニングコーヒー。どっちか好きなほう選んで」
「あー……。ありがたいんすけど、今はちょっと。荒木さん先に決めて」
「なに、なんで?」
「あんま口開けたくないんすもん」
こちらを不思議そうに仰いでいた荒木さんは、おれの言葉にようやく合点がいった様子で頷いた。それからくつくつと小さく笑い出す。面白がっているときの嫌味な笑い方だ。どうせ一昨日のおれの醜態を思い出したに違いないのだった。爆笑するチームメイトの内訳には、当然この人も含まれていた。
「まーたそうやってね、他人事だと思って」
その笑顔と反対におれは眉根を寄せた。散らかしていた資料を掻き集め、鞄の中に乱暴に、しかし角をきっちり揃えて折れないように押し込む。おれはこう見えて几帳面な性格なのだ。
「悪い悪い」
忌々しさを込めて睨みつけると、荒木さんは少しもそうとは思っていなさそうな軽い調子で詫びた。相手にするだけ無駄だと思い沈黙していたら、モリーごめん、と今度は比較的誠意の感じられる謝罪が返ってきたので、許した。
「つーかおまえ、昨日はそこそこ平気そうにしとったよな。よく見たらなんか膿んできてない? それ」
「いや、思った。やっぱそうっすよねえ……あとでトレーナーさんに聞いてみようかな」
「お」
不意に荒木さんが乱れたベッドの片隅に目を留めた。
「この薬は効き目なしだったってこと?」
枕元に手を伸ばし、昨晩から放置したままだった白い封筒を手に取りながら言う。
「さあ。でもまあ塗らないよりはマシなんじゃないすか」
一体なにが面白いのやら、荒木さんは袋の中から取り出した軟膏のチューブや説明書を興味深げな様子で眺め、ふうんと相槌を打つ。その視線はしばらくするとおれの元へと戻ってきた。いたずらっぽく見開かれた瞳が、こちらを捉えてすうっと細まる。
なんとなく嫌な予感がした。そして予感は見事に的中する。
「塗ってやるよ」
「は?」
目を細めたまま荒木さんが手招きして呼ぶ。おれは呆れて肩を竦めた。唐突になにを言い出すかと思えば、やっぱりろくなことじゃなかった。やけに楽しげなあたりがまた一段と気味が悪い。
「……自分でやりますよそんなん。幸い両手は自由に動くんでね」
「まあまあそう遠慮すんな。ひとまずこっち来て座れ、ほらここ」
「遠慮じゃないし」
「早く早く」
無邪気にベッドを叩く荒木さんを無視し、おれはコーヒーの品定めをする。この世界は年功序列だけれど、歳の近い上下関係というのは付き合いが長くなるにつれて段々と曖昧になってくるのが正直なところで、おれにとっての荒木さんは、もうほとんど同世代のような感覚だった。だから時にはこうして歳上である荒木さんをぞんざいに扱うこともある。時にはというか、ままある。今までそれで許されてきているのは、本人がおれの態度を本気になって咎めようとしないからだ。この人はおれに甘い。
「いいから座って。な? モリー」
しかし、今日の荒木さんは一向に折れる気配を見せなかった。おれは怪訝に思い、呼びかける荒木さんのほうを見据えた。新しい遊びを発見した子どものように、期待に目を爛々と輝かせている大人がいる。そういえばこの人はまれに変なところで頑固だったりもするのだった。その強情さが今まさに発揮されているのだとおれは悟った。
「早く来いよ」
しつこく催促され、諦めて小さくかぶりを振った。荒木さんは大概おれに甘いけれど、同等かあるいはそれ以上に、おれも荒木さんを甘やかしていると思う。なんだかんだと文句は言いつつも、頼みごとをされれば結局は断れないのが常だった。
「変なことしたら怒りますよ」
念を押した上で、おれは指定された場所にぼすんと腰かけた。反動で荒木さんの満足げな顔が上下する。
「わかっとる。任せろって」
「頼むよほんとにもう」
相変わらずの軽薄な返事にほとんどやけくそみたいな気分になったけれど、しかし承諾してしまった以上は下手なことをされてはたまらないので、おれはきちんと正面から荒木さんと向き合った。これで文句はないだろうと言わんばかりのふてぶてしいおれの態度にも、荒木さんは怒ることなく頷いた。
軟膏は乳白色をしていた。薬指の先に乗せられたその塊を見ながら、朝陽と同じ色だとおれは思った。荒木さんの指は長く細く、節くれ立っていて、しかし指の先端だけはつるりと丸くきれいな曲線を描いており、血色がいい。皮膚が薄いのかもしれない。軟膏と肌のやわらかな色をじっと見つめる。なんだかちょっといやらしかった。そう意識したら急に居たたまれない気分になってきてしまい、おれは慌てて目を逸らした。
「動かんで」
荒木さんは空いていたほうの手をおれの頬に添え、顎を上げさせた。変なことを考えていたせいで、うっすら湿ったその肌の感触が生々しく感じられ、触れられることには慣れているはずなのになんとなく緊張してしまう。荒木さんは患部だけを凝視していて、こちらの動揺には気づいていないらしかった。
そして荒木さんは繊細な手つきで傷口にそっと薬を滑らせた。先ほどまでのふざけた空気は消え、至極真剣な恋人の顔が視界いっぱいに広がっている。視線の置き場に困り、おれは目を閉じた。
なるべく優しくしようという荒木さんの意思は伝わってくるけれど、剥き出しの患部に直接刺激がいくのはやはりつらいものがあった。
「すげえ熱持ってんなあ。ちゃんと寝た? 飯もろくに食っとらんよな」
痛みを堪えているところに尋られ、頷くことも喋ることもできなかったので、代わりにおれはうんともううんとも聞こえるような声で唸った。荒木さんの言うとおり、この傷を作ってからはまともな食事をしていない。口がうまく開けられないし、ものを噛む動きをするだけでも痛むので、最低限以下の食事で済ませてしまっていた。怪我をした試合の翌日はちょうど移動日が重なっていたため、体力的な面ではそれほど支障はなかったけれど、こうして改めて指摘されてみると、今まで鳴りを潜めていたはずの空腹感がにわかに煽られた。
荒木さんの指が離れていき、おれは目を開ける。そして苦々しく訴えた。
「だって食えないもん、見た目よりずっと痛いんすよこれ。喋んのだってほんとは億劫だし」
「そんなに?」
「当然」
目尻に何本もしわを寄せて荒木さんは笑う。こちらの切実な思いなど露も知らず、といった呑気な笑顔が不満でうっかり唇を尖らせてしまい、すぐに後悔した。激痛だ。
荒木さんは指に残った薬をティッシュで拭き取ったのち、絆創膏をおれの唇に貼りつける。
「はい、痛いの痛いの飛んでいけー」
子どもだましの懐かしい呪文を唱えながら、荒木さんは今度は優しくほほえんだ。もういい歳だというのに保護者のような慈愛の表情を向けられて、どうしようもないむず痒さを覚える。そしておれはふと、こんなふうに他人から薬を塗ってもらったのは一体いつ以来なのだろう、と思考を巡らせた。職業柄頻繁に病院やトレーナーの世話にはなっているけれど、検査や注射やマッサージを受けたりはしても、薬を塗布された記憶は直近では思い当たらない。
ただ、過去をさかのぼって強烈に覚えている場面はあった。それはまだおれが野球を始めて間もなかった幼少期、叔母が所属していたソフトボールチームの練習に参加させられていたころのことだった。一昨日とは違った理由で自由に身体が動かせなかった子どものおれは、いつもどこかしらに傷を作っていた。そのたびに付き添いで来ていた父や母は泣きじゃくるおれを慰めながら傷口を水で洗い、消毒液を塗り、ガーゼを当て、例のおまじないをかけてくれた。ただし水や消毒液をかけられたときの痛みは今でも結構なトラウマになっていて、親子の心温まる在りし日、と呼ぶには少々つらすぎる思い出ではあるのだけれど。
遠い昔のことだ。あれからもうどれほどの歳月が流れたのだろう。当時とはだいぶ状況が違ってはいても、この歳になってふたたびあの頃のような経験をするとは、まさか夢にも思わなかった。なんだか不思議な心地がしていた。嬉しいとか懐かしいとかいった心を大きく揺さぶられるほどの感動はないけれど、よくわからない浮遊感がそこにはあった。
荒木さんがくずゴミを捨てる。静電気で指にくっついた絆創膏のフィルムをぺっと払う。たった今まで壊れものを扱うみたいにしておれに触れていたあの指。あの湿った指先が、記憶の深部に溜まっている過去のおれを撫で上げて、ひらりと宙に舞い上げた。そんな感じだった。
「よし」
荒木さんは言い、一息ついて緊張を緩めた。ついでとばかりにおれの髪をぐりぐりと掻き回し、軟膏を紙袋に戻していく。
「もうちょっとカロリー摂らんとまずいよなあ。食えそうなもん思いついたら言って。あとで買ってきてやるよ」
「……あざっす」
おれは乱された髪を梳く。かつての自分の人生にはまだ荒木さんは存在していなかった。しかし忘れかけていた遠い記憶を蘇らせたのは他でもない、今まさに目の前にいるこの人で。そう考えると、なんだか過去と現在が交錯しているかのような、奇妙な気分にもさせられる。
家族と友人がすべてだったころの自分がいて、その時間の延長線上に現在がある。家族にも友人にも知られずひそやかに荒木さんと生活している今の自分の姿が、あるのだった。
そのときほんの一瞬、なにかが心に引っかかったような気がした。けれど同時に感じた肩の重みによって、引っかかりは正体を現す前に消えてしまった。
「食えなくてもさすがに痩せはしないか」
独り言みたいに言って、並んで座っていた荒木さんはおれの肩を抱いた。さらにぐにぐにと腹をつまんで肉の厚みを確かめている。
「二日三日で変わるわけないじゃないすか」
煩わしい動きをする手を払いのけ、腕の拘束からも抜け出そうとすると、ぎゅっと力を込めて止められた。視線がかち合う。白い光がその端正な顔に薄い陰影を作っている。距離の近さにもしかしたらキスされるのかもしれないという気がしたけれど、荒木さんはただ無言でおれを見つめているばかりだった。カタン、と隣の部屋からかすかに物音が聞こえる。
「大人になってから誰かに薬塗ってもらったことってあります?」
沈黙がきまり悪く、間を持たせるためにおれは適当に尋ねた。え、と荒木さんは大袈裟に目を丸くして、その後は難しい顔になりしばらく思案していた。
「うーん……そういやないかもなあ。まあ、高校時代ならマネージャーの女の子に湿布とか貼ってもらったりはしたけどな」
なんだか含みのあるような言い方をされた気がした。荒木さんの頬が片側だけ不自然に吊り上がる。おれも伊達に長い付き合いをしていないのでその表情の意味をすぐに察し、唇は極力動かさずにふんと鼻で笑い飛ばした。
「なに妬かせようとしてんすか。荒木さんわかりやすいから揺さぶっても意味ないっすよ、全然」
「わかりやすい?」
おれの言葉が理解できないのか、荒木さんはきょとんと首を傾げる。口が半開きになっている。またそうしてすぐに態度に出すから、と思ったけれど、この人の百面相をおれは気に入っているので本人には教えてあげない。言って変に気にされたら困るし。
「だって荒木さんておれのこと大好きじゃん。愛がだだ漏れだから妬けるもんも妬けないんすよねー正直言って」
「……自惚れや」
「あーはいそっすね」
「てかおまえはどうなんだよ。薬」
「大人になってからはないんじゃないすか?」
先ほど思い出した幼少期の記憶をおれは話して聞かせた。オチもないどうでもいいような話なのに、荒木さんは終始真剣に耳を傾けていた。
「初めて聞いた。それ」
「確かにこんな話、普段はする機会ないっすよね」
「結構長いこと一緒にいるのにさあ、まだまだ知らんことだらけなんだよな。おれら」
荒木さんはぼそぼそと呟きながらおれの肩に頬を擦りつけた。石けんと荒木さんのにおいがする。甘えられているなあと思いながら、おれは荒木さんの腰を抱いて応えた。薬を塗るという目的はとうに果たされているのだから、本当はこんなふうにいつまでも密着している必要などないのだけれど。
「そりゃまあぜんぶ知りあうのは無茶だし。誰でもね。でも知らないことがあったほうが人生長く楽しめるんじゃないすか?」
「そうかなあ。おれはおまえのことなら今すぐ全部知りたいよ」
荒木さんが肩に顔をうずめたままなので、喋るたびに身体が震わされてくすぐったい。
「傲慢だなー。やっぱ妬けないわこれじゃ」
「でもおまえもおれのこと好きだし、お互い様だよな」
「は? なんで急にそうなんすか」
「だってさっきからずっと目え赤いもん。照れてんじゃん」
「いやこれただの寝不足なんで」
「ふうん。じゃあ今夜はよく眠れるように添い寝してやろうか?」
「うひッ」
わざとらしく耳元でささやかれたかと思うと、耳の穴にざらりと舌が侵入してきた。突然のことに驚いて飛び上がり、おれは突き飛ばすように荒木さんの胸を押し返した。
多少の抵抗を見せるかと思いきや、しかし逆らうことなく意外にもあっさりと荒木さんは離れていった。拍子抜けしたおれは思わずぽかんとした。傷が突っ張るのを感じて慌てて口を閉じる。そんなおれの反応を見て、荒木さんはぺろりと舌をのぞかせながら笑ってみせた。驚きで早まった鼓動が舌の赤さと艶でさらにせわしくなる。
「冗談だよ。怪我が治るまでは変なことしないから安心して。期待に応えられなくてごめんな?」
からかわれたのが悔しくておれは顔をしかめた。
「……はあ? 期待してるって。誰が。いつそんなこと言ったんすか」
「顔に書いてあったけど違った?」
「バカじゃないの」
「おまえが知らないおまえのことは結構知っとるけどなあ」
「荒木さんこそ医者で診てもらったほうがいいんじゃないすか、目とか脳とか」
「ははは。子どもみたいなこと言うなよ」
劣勢になったのを感じて苦し紛れに荒木さんを睨みつける。おれはいつもこの人に口で勝てない。ああ言えばこう言う、言い返せば言い返すほど意地の悪い笑みが範囲を広げていくものだから、逆に自分の首を絞めているみたいだった。その後もなんとか食い下がってしばらく攻防を続けたけれど、荒木さんはおれの小言を華麗にかわした。
そのうちにおれの心には、どうにかこの余裕を打ち崩してやれないものかという強い思いが湧き上がってくる。仕事だろうがプライベートだろうが負けず嫌いな性分は同じだ。
瞬間的におれはあることを閃いた。口で勝てないのなら行動あるのみ。そう思い荒木さんの胸ぐらを両手でがっちりと掴んだ。そのまま乱暴に自分の元へと引き寄せ、ためらいに邪魔をされる前に思いきり唇を押しつけた。一瞬の出来事だったけれど、呆気に取られる荒木さんの間抜けな表情がおれの目には鮮明に映っていた。
うっ、という呻き声を漏らしたのは、自分のほうだった。行為に色気を感じている暇などなく、ぶつかりあった箇所から強烈な痛みが走った。
おれはすぐさま荒木さんを解放し、口元を手で覆った。少し遅れてじわりと涙が滲んできた。
「ッ、てえー……っ」
「おまっ、ちょっ、おまえ」
思わずうずくまったおれの背中を、我に返ったらしい荒木さんがあわあわと撫でさすった。
「おいモリー大丈夫か? 血出てない? えっマジで今のなん……どういうつもり? いやそれよりもまず一回見せてみろ。こっち向けほら」
必死に声をかけたり顔を覗き込もうとしたりと、荒木さんはひどくうろたえている。じんじんする唇の周りに爪を立ててどうにか痛みをやり過ごしながら、しかしおれは内心では笑い出したい気分になっていた。実際にはとても笑えるような状況ではなかったけれど、すっかり余裕を失ってしまった荒木さんの反応を、ざまあみろ、と痛快に思う。ほとんど捨て身ではあるものの、思惑どおり一本取ってやることができて満足だった。
「モリー、おいって」
顔を上げると、荒木さんは背中に手を置いたまま身を屈めて視線を合わせてくる。
「大丈夫?」
「荒木さんのほうこそこういうことしたかったんでしょ」
「は? バッカおまえなに言って……」
「でももうしてあげない」
心配そうにしている荒木さんをわざと冷たくあしらい、おれは口を押さえたままばふっと布団の上に倒れ込んだ。天井には明るい光が満ちている。布団の山の向こうの荒木さんが居たたまれなそうに鼻の頭を掻いた。焦りと照れで微妙に赤らんでいるそこを見たおれは、ざまあみろ、ともう一度くり返した。その拍子にうっかり口角を上げてしまったけれど、傷の痛みなんてもうどうでもよくなっていた。
「あー腹減ったー」
窓の外の青空を眺めながらおれは大声で言った。空の色は起き抜けのころに比べてずいぶんと濃くなっている。
「トラちゃーん」
「あだ名で呼ぶな。先輩に向かって」
荒木さんが素早くこちらをふり返る気配がして、その無駄な機敏さに笑いが漏れてくるのを堪えきれない。横っ腹のあたりを膝でつつくと荒木さんは抗議しながら変な体勢になり、それもまたおかしかった。
「おまえなあ、先輩を足蹴にするとは何事や」
「あーもうあんまり笑わせないでよ、めちゃくちゃ口痛い。このままじゃ裂ける」
「自分で勝手に笑いよるだけばい」
「ふひっ、ちょっとばいって言うのやめてって、面白いから」
「失敬なやつ……。ったく、痛いの大丈夫なの?」
「ええー? うーん、微妙だからもっかいやってほしいかな。さっきの」
「なに」
「おまじない」
「痛いの痛いの飛んでいけ」
「なんか雑じゃないすかー?」
「飛んでった?」
「ううん。でもありがとう」
「おう」
おれ達はどちらからともなく手を伸ばしあい、ごく自然な流れで仲直りの握手をした。その手を離さないまま、荒木さんが覆い被さってきた。ベッドがぎしりと沈む。受け入れるように目を閉じると頬にあたたかいものが触れた。
「しばらくはこっちだけか……」
今ひとつ物足りなさそうにしている恋人の顔を見上げながら、これは禁欲生活が明けたらどうなるかわからないぞ、この人だけではなく自分も、などとおれは思う。そして一刻も早い完治を目指そうと気持ちを新たにし、これ以上傷に響かないよう腹の底からせり上がってくるおかしさを無理やり抑え込んだ。殺しきれなかった残りの笑いを鼻から逃したあと、荒木さんの首の後ろに腕を回して抱きしめる。肩越しに小さな埃の粒たちがキラキラと舞っていた。
隣の部屋のドアが開く音がした。もうじきに朝食の時間になる。腹減ったなあ、とおれはまた思い、同調するかのように腹の虫がぐうと鳴く。荒木さんがおれの胃のあたりを笑いながら撫でた。あとで買ってもらったモーニングコーヒーを飲もう。他にもあれこれと食欲のそそられるものを思い浮かべていく。誰のおかげとは言わないけれど、今日は昨日よりも少しだけ多めに食べられそうな気がした。
(おわり)