バレンタインデーの話、エイプリルフールの話。2012~2014年ごろに書いたものの加筆修正版。
■バレンタインデーの話
「トラちゃん、はいこれ」
部屋の扉を閉めるなり、ガサッと色気のない音を立てながら森野は無造作に手を突き出した。風呂上がりの濡れた髪を拭くのをやめ、おれはその手にぶら下げられているものと、やけに真剣な森野の顔に交互に注目した。
「バレンタインデーなんでね。買ってきましたよ」
そう言う森野は一足先に風呂を済ませているらしく、ホテルの備え付けの石鹸の香りを漂わせながら、おれの部屋へとやってきた。二月のこの時期、キャンプ地である沖縄で過ごしている期間は大概こんな感じで、おれ達は互いの部屋を往来する。二月を過ぎれば、ホテルは自宅マンションに代わる。
「え、なに? バレンティン?」
「開けて」
「……チョコ買ってきてくれたの?」
「そっすよ」
「珍しいなあ」
「悪かったすね珍しくて。ほら」
なんだか妙につっけんどんな態度を取るな、と不思議に思いながら、不発に終わった駄洒落のことは忘れ、おれは胸に押しつけられたチョコレートを袋ごと受け取った。
「つーかおまえ、カレシへのプレゼントなのにスーパーのレジ袋に入れたまんまってのはどういうわけ?」
「いいじゃん別に。あと発音、カレシって尻上がりにすんのやめてくださいよ気持ち悪い」
「今どきやん」
「バリバリの昭和生まれがなに言ってんすか。いいから早く開けてって」
「あーはいはいありがとうございます」
どっちが歳上なんだかわからない相変わらずの応酬をしながら、おれは言われたとおりに袋から中身を取り出した。
「……なにこれ?」
ぽかんとして聞くと、なぜだか逃げるように目を逸らされて、また不思議に思う。おれの手の中には、バレンタインデーのチョコレートのイメージとは到底結びつけがたい、ラッピングもなにもされていない透明なパックに詰まった茶色い液体がひとつ。パッケージには丸くかわいらしい字で「チョコソースであま~い手作りスイーツ!」などという文言が踊っていた。
「チョコっすよ。ちゃんとした。見りゃわかるでしょそこに書いてあんだし」
森野はそっぽを向いたまま気だるそうに指を差す。
「いやおまえ……これお菓子作りの材料だろ。間違っても単品で渡しちゃいかんよ」
「ふうん」
森野がいつまでも視線を合わせてくれないので、だんだん気味が悪くなってきた。なにかおれに後ろめたいことでもあるのだろうか。もしやこれに毒でも盛られているとか。
「ふうんじゃないよ。どうした? おかしいよおまえさっきから」
「いらない?」
「え?」
「いらないんすか?」
少し強めに尋ねられ、どうしたものかと考えた。恋人から貰ったプレゼントを突き返すという非人道的な行為は絶対にしないけれど、しかしこれだけ渡されたところでおれには活用法などひとつも思い浮かばないので困る。ホテルの部屋には一応キッチンが備え付けられてはいるが、おれが普段ほとんど料理をしないことくらい、長い付き合いになるこの森野なら重々承知のはずだった。それでいてなぜこんなものを用意したのか、意図が見えてこないから困るのだ。嫌がらせやいたずらという雰囲気でもなさそうだった。森野が本気でこれを渡したがっていることは、部屋に入ってきたときの面持ちでわかった。
「……はー、じゃあもういいっす」
いつまでも無言でいるおれに焦れたのか、森野は溜め息をついた。そしてようやく真正面からおれを見た。
試しているような、怯えているような、責めているような、甘えているような、含みのある視線が、じっとこちらに注がれる。それに込められた意味をたぶん他の誰も知らないのだろうけれど、おれはとてもよく知っていた。そしてすべての辻褄が合う。
ぶっきらぼうな森野の態度、液体のチョコレート。この瞳の色。点と点が線で繋がった瞬間に血圧がぐわっと急上昇したような感じがした。
「ふん。せっかく恥を忍んで用意したのにね」
「待って」
部屋を出ていこうとした森野をすかさず呼び止め、ぐっと腰を抱き寄せる。うなじから汗と石けんの匂いが立つ。森野は逆らいもせずすんなりと腕の中に収まった。体格は自分よりも大きいはずなのに、こういうときの森野はなぜだかいつも一回り縮んだように感じられる。猫背のせいだろうか、それとも他にわけがあるのだろうか。いずれにしても、かわいい、と思う。
「いる。貰うよ」
ささやく声に自然と熱がこもる。はあ、と森野はおれの肩に顔をうずめながらまた溜め息をついたけれど、そこにも同じく呆れとは違う熱がまじっていた。
「……買うのめちゃくちゃ恥ずかしかったんすからねこれ」
「そうやな、ごめん」
「ほんとにわかってんの?」
「わかってる。ありがたく頂戴します」
「ったく……」
森野が肘を突っ張りおもむろに身を離す。長いまつげの下でうっすらうるむ瞳に、またどきりとする。自分まで照れくささが伝染しそうで、手にしたままのパックを意味もなく揉んで気をまぎらわせた。液体なので柔らかい。温めずとも使えるタイプだ。まあ、肌の上に乗せたら、大概のチョコレートは溶けてしまうのだろうけれど。
「食べ物で遊んだらバチ当たりかなあ」
独り言くらいの小声で尋ねてみる。
「真剣ならいいんじゃないの」
すると森野が同じように小声ではあるけれど普段はあまり口にしないようなことを言ってのけたので、おれは少し驚いた。
「おお。言うねえ」
「そりゃまあたまには……」
森野はもごもごと歯切れ悪く答え、また顔を背けてしまう。拗ねたように見えるがこれは照れ隠しで、むしろ機嫌がいい証拠。
そうだ、森野はずっと照れていたのだ、ひとつの目的を持っておれの元へやって来たときから、ずっと。あるいはスーパーでこれを手に取ったときから。いや、おれと抱きあいたいと感じたときから、かもしれない。
なんだか気分がよくなってきて、おれはまた森野の腰に腕を回した。
「ちょっと」
「おれもいっこ言っていい?」
「なんすか」
「おまえってかわいいよな」
「……。それはさすがに寒くない?」
「おいなんでだよ、今そういう流れやったやろ」
「うるさいな」
だって今のはお互い様だろうが、と言いかけると、胸ぐらを掴まれた。キスされる、とおれはすぐに察する。でも主導権は渡したくなかった。今日のおれはひと味違うことを示すためにその手を振りほどき、森野が呆気に取られている隙を突いて後頭部を掴み、唇を押しつけた。ついでに舌も入れてみた。
抵抗する素振りを見せたのはほんの一瞬で、森野はすぐにおとなしくなり、ゆるくおれの服の裾を握った。やっぱりかわいい。心の中で改めて思う。かわいいものはかわいい。存分に愛したい。ガラじゃないことはわかっているけれど、そういう気分にさせられてしまうのだから仕方ない。
深く口づけたままうなじをそっと撫で上げると、合わさった唇のあわいから吐息が漏れた。触れあう部分の感触を楽しみながら、これからやってくるであろう甘い時間を想像する。それこそ寒いの間違いだと世間は馬鹿にするかもしれない。けれど構いやしない。
だって、真剣なおれ達を邪魔する権利を持つやつなんてきっとどこにも存在しない。相手が世間だろうが神様だろうがなんだろうがそれは同じことだ。第一、こんなにかわいい生きものを目の前にして黙っていられる感覚のほうがよほど異常じゃないか。
おれは頭の中で強引に結論づけ、汗をかいた手でチョコレートソースの封を切った。なんすか気が早いなあ、風呂でしようって、と、緊張と興奮を滲ませた声で森野が笑うので、ますます愛しく思った。
(おわり)
エイプリルフールの話
「あ、そうだ。ねえトラちゃんおれね、別れようかと思ってんすけど」
「んあ?」
森野が不意に、仰向けになって読んでいた新聞紙をばさりと下ろし、横で寝そべっているおれの背中に向かって呼びかけてきた。あたたかい空気を存分に含んだ布団にくるまりながら、春眠暁を覚えず、などと起き抜けの頭でぼんやり考えていたおれは、寝ぼけ半分で寝返りを打った。寝室のカーテンの隙間から春の朝日が差し込んできて、少し眩しい。今日はよく晴れそうだ。
「んーん? なに、もっかい言って」
間近から見つめあって、尋ねた。首だけこちらに向けた森野がなんだか妙に深刻ぶった面持ちなので、おや、と不審に思う。
「だからね、別れようかなって」
森野はこれまた実に深刻そうに切り出した。しかし寝起きのせいか、おれにはさっぱり話が見えてこない。
「別れる? って、誰が?」
「おれが」
「誰と?」
「トラちゃんと」
「ううん……なんでおれが……?」
霞む目を擦りながらおれはしばらく首を傾げていた。徐々に冴えつつある思考で、おれがトラちゃんと別れる、ということはつまりどういうことだろう、などと他人事のように思い、それからにわかにがばっと布団をはぐって身を起こした。その拍子に広げたまま放置されていた新聞紙が乾いた音を立ててひしゃげた。
「ちょっと。寒い」
抗議の声など一切耳に入らず、ようやく話の合点がいったおれはバカみたいに口を開けながら森野を見下ろした。
「あの……おまえ、別れたいの? おれと……?」
「そっすよ」
森野は不満顔でずれた布団を自分のほうへ引き戻しながら、たわいない会話の延長のような軽い調子で頷いてみせた。あったかいのが逃げるってば、ねえ、と重ねて訴えられるが、急展開する事態を把握できずにいるおれの耳にはやはり届いてこない。
「もしもし?」
愕然としたままでいると、腕をぺちぺちと叩かれた。はっとして森野を見つめる。初め深刻そうにしていたはずの森野は、おれが話の主旨を理解したあたりで、別れ話などというとんでもない話題を振ってきた人間の態度とは思えないような、ずいぶんと呑気な様子に変わっていた。それで、なにかがおかしいとおれは違和感を覚える。
黙ってじっと俯いていると、自分と森野にしわだらけにされてしまったかわいそうな新聞紙が、ふと目に留まった。さっき森野が新聞受けから取ってきたばかりの中日スポーツ。その日付欄を見ておれは思わず顔をしかめた。
「……エイプリルフールか」
「あ、もうばれちゃった」
新聞の日付欄が四月一日だった。渋い気持ちで森野を睨みつけると、ふふんと小生意気な笑顔が返ってきたので、おれはますます顔をしかめる。そして非難の思いを込めて憎たらしく歪む頬をつねってやった。
「いった、痛いってもう」
「そういう笑えない冗談やめろよ」
「すんません」
笑っておれの手を引き剥がし、森野はけれど少しだけ反省したように眉を八の字に下げた。おれは深く溜め息をついた。何事かと思っただろうが、この人騒がせなやつめ。朝っぱらから心臓に悪い。血の気が引いたり戻ったり、もういい歳だし血圧が心配になる。
「あーもう、ったく……。完全に目え覚めた。あと腹減った」
「冷蔵庫になんか残ってました?」
「ない。今日天気いいしランニングがてらスーパー行ってくるわ。なんか欲しいもんあったら言って」
「よかった」
「へ?」
身支度のために布団から抜け出そうとしたところで、ふり返る。もぞもぞと森野もこちら向きに寝返って、静かにおれを見仰いだ。漏れ差す陽光が森野の髪を照らし、赤茶色に透かす。大きな瞳も光を取り込みうるうると濡れている。
「よかった?」
おれが尋ねると、森野はしばらく黙り込み、そしてやがて「嘘で終わったんで」と小さく答えた。
「はああ……?」
森野の答えを聞いた瞬間に全身の力が抜けていき、がっくりと項垂れる。さっきよりもずっとずっと深い溜め息が漏れた。呆れた。飄々としていたかと思えば急になんなんだこいつは、捨て猫みたいな顔で、まったく本当に。
「おまえなあ……そんなん思うくらいやったら最初から言うなよなあ……」
こんなくだらない言葉遊びで朝っぱらから不安がっていてどうするんだ。四月のうららかな春の日だというのに。きっと外では桜だって満開なんだろうに。まったく、本当に本当に、そこまでおれを好いてくれているなんて。
「バカだな」
「四月馬鹿だし」
「いや、おれが」
森野が訝しげに瞬きする。長い睫毛を揺らして無防備におれを見つめ返す。なんだか幼くてかわいい、と思う。やっぱりバカみたいだ。
「……まあおまえも大概や」
「だって荒木さんさあ、一瞬真顔になってたもん。その気があんのかと思うじゃん」
森野は言いながら拗ねた子どものように唇を尖らせる。まるでこっちに非があるみたいな言い方にむっとして、おれは自分が同じ口になっていることに気づかないまま言い返した。
「そりゃおまえ、おれだって必死なんやぞ。あんなこと言われたら真顔にもなるわ」
「なんすかそれ。意味がわかんない」
「わかれよ」
「いや無理でしょ。どういうこと?」
「……だからさあ、おまえに嫌われたくないと思って日々努力してんだろ?」
察しの悪い森野に向かって半ばヤケ気味に言い捨て、おれは布団の上からその脚を軽く蹴った。森野は暴力をふるわれても文句を言わなかった、というか、たぶん気づいていなかったと思う。それくらい呆気に取られていた。
その表情を見ているうちにどうにも居たたまれなくなってきて、おれは今度こそベッドを降りた。春眠暁を覚えずとはいえ、せっかくの天気なのにいつまでもだらだらしてなどいられない、と思う。まずは朝食の買い出し。それから洗濯。花粉のせいでベランダに干せないのが残念だけれど、今日なら部屋干しでも除湿機を稼働させれば夜にはしっかり乾くはずだ。頭の中で次々に考えを巡らせる。
「……荒木さん」
背後から森野が呼んだ。けれどあまりいい予感がしなかったので、おれはもうふり向かないことにした。
「荒木さんってば」
「なんだよ」
二度目の呼びかけで仕方なく返事だけする。そして寝室のドアノブを握ったときに、森野は言った。
「耳赤いんすけど」
「……。……、うるせえわ」
ああ、やっぱり相手などせずにさっさと出て行ってしまえばよかった。今の捨て台詞は我ながら実に格好悪かった。激しく後悔したけれど、でももう遅い。照れてのぼせた頭ではそれ以上の言葉が思いつかなかったのだ。おれは森野に指摘された耳を無意識に触りながら、やや乱暴な足音を立てて部屋を出た。
「そっちこそ言わなきゃいいのに……」
後ろ手で扉を閉める寸前に、ぼそぼそと呟く声が聞こえてきた。思わずふり向きかけたけれど、ぐっと耐える。自分だけでなく森野まで照れている気配が背越しでも伝わってきて、耳だけでなく顔全体が熱くなった。
あんな告白まがいの台詞を吐いてしまって、これから今日一日、一体どんな顔で森野と接すればいいのだろう。どうしようもない恥ずかしさに、寝室の扉の前で頭を抱え、おれは静かに悶絶した。
(おわり)